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<title>聖人カレンダー | 子どもの名前選びや、誕生日の聖人を知ろう！</title>
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<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2009</copyright>
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<title>聖人カレンダーできました２</title>
<description><![CDATA[<p>見てね！メール登録するといいよ。</p>]]></description>
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<category>本の紹介</category>
<pubDate>Tue, 23 Jan 2007 18:16:27 +0900</pubDate>
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<title>聖人カレンダーできました！</title>
<description><![CDATA[<p>３６５日分できましたよ！</p>]]></description>
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<category>本の紹介</category>
<pubDate>Tue, 23 Jan 2007 18:12:29 +0900</pubDate>
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<title>シルベストロ：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月３１日<br />
　　聖シルベストロ1世教皇（St. Sylvester I）</p>

<p>シルベストロは、ローマに生まれ、キリスト教迫害時代、教会のために貢献した。長い迫害の時代が終わり、313年に皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した直後に、シルベストロは第33代の教皇に選ばれた。5世紀の伝説によると、シルベストロは皇帝に洗礼を授けたといわれている。彼は宗教会議を開き、ドナトゥス派を破門し、325年のニケア公会議では、アリウス派の異端を退けた。また皇帝の援助で、ローマにラテラン大聖堂、聖ペトロ大聖堂、聖ラウレンチオ教会などを建てた。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Sat, 31 Dec 2005 13:55:47 +0900</pubDate>
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<title>メラニア：子供の名前（女の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月３０日<br />
　　聖メラニア</p>

<p>　メラニアは、ローマに生まれた。祖母は大メラニアであり、エルサレムに女子修道院を設立した聖人であった。<br />
　メラニアは、397年に父から強制されて結婚したが、不幸にも2人の子どもを亡くし、夫とともに禁欲生活の道を選んだ。父の死後、莫大な財産を相続したメラニアは、それを貧しい人々や、教会のため、また多くの奴隷解放のために使った。西ゴート族が襲ってきたときは、夫とともにローマを離れ、アフリカに行き、聖アウグスチヌスと出会ったといわれている。その後エルサレムに住み、431年、夫に先立たれてから、オリーブ山に彼の墓を作ってその近くに小屋を建て、祈りと修行の生活に励んだ。そのうちに彼女のもとに女性たちが集まり、修道院となった。</p>]]></description>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Fri, 30 Dec 2005 13:52:12 +0900</pubDate>
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<title>トマス：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２９日<br />
　　聖トマス・ベケット司教殉教者（St. Thomas Becket）</p>

<p>　トマスは、イギリス、ロンドンのノルマン人の商家に生まれた。ロンドン、パリで学んだのち、1141年にカンタベリー大司教テオバルドゥスに見いだされ、彼の片腕となって教会のために貢献した。その後、国王ヘンリー2世の顧問となり、国政の改革に力を尽くした。<br />
　大司教が亡くなってから、王は英国教会を王権下に置こうとして、1162年トマスを大司教として選出した。そのころまでトマスは、栄華と名誉を求め王と親交を保っていたが、生活を一変し聖性への道を歩むとともに、教会の権利を王権から守ろうと努めた。そのため王の怒りを買い、フランスに亡命した。時の教皇アレクサンドル3世がトマスの主張を認めたため、王も自らの非を認めて、両者は和解し、1170年にトマスはイギリスに戻った。だが争いは再び起こり、トマスはカンタベリ大聖堂で王の配下によって暗殺された。トマスの死は全ヨーロッパに衝撃を与え、のちに王は彼の墓前で罪を悔い改め、教皇権に従った。<br />
　トマスの墓は、巡礼地となっている。<br />
</p>]]></description>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Thu, 29 Dec 2005 13:50:33 +0900</pubDate>
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<title>幼子殉教者:子供の名前</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２８日<br />
　　幼子殉教者（Feast of the Holy Innocents）</p>

<p>イエス・キリストが誕生した当時のイスラエルは、ヘロデ王が国を治めていた。彼は、それまでイスラエルを治めていたハスモン王朝の王女と結婚して王権を握り、自分に反抗する者をつぎつぎに殺す残虐な性格の持ち主であった。イスラエルはローマ帝国の属国であり、ヘロデはローマに追従する一方で、イスラエル人の宗教に対する信仰深さを知り、それを認めて、自分の利益のために豪華な神殿に改修した。また他にも多くの建設事業をしたことは有名である。<br />
　あるとき、3人の博士が東方（現在のイラン）からヘロデのもとを訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねた。ヘロデは自分の他に王位を狙う者が現われたと思い、その者の殺害を実行しようとした。そしてヘロデは、祭司長たちや律法学者たちを集め、ベツレヘムに現われると分かると、「『ユダヤの王』を自分も拝みたいので見つけたら知らせるように」と言って博士たちを送り出した。しかし、博士たちは「ヘロデのところに帰るな」と夢で告げられたので、別の道を通って帰った。ヘロデはそれを知って、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しするように命じた。このときヨセフは、天使のお告げによってイエスとマリアを連れてエジプトに逃れた（マタイ2章 参照）。<br />
　おそらく殺された幼子は、20名ぐらいだっただろうと伝えられる。<br />
</p>]]></description>
<link>http://www.nazuke.jp/seijin/000387.php</link>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Wed, 28 Dec 2005 13:48:23 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>聖ヨハネ使徒福音記者：子供の名前</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２７日<br />
　　聖ヨハネ使徒福音記者(St. John the Apostle)</p>

<p>ヨハネは、イエス・キリストの12使徒の1人であり、使徒ヤコブと兄弟で、ともにゲネサレト湖畔のベトサイダで漁師をしていた。ヨハネは、ヤコブと漁の網を繕っているときにイエスに呼ばれ、彼の弟子となるためにすべてを捨てて、イエスに従った。ヨハネは、イエスから最も愛された弟子の1人とされ、イエスの処刑のときにも十字架のもとに立ち、イエスから彼の母マリアを母として世話するように委ねられた。<br />
　その後ヨハネは、エルサレム教会の指導者としてペトロとともに活躍し、パウロが殉教した後にエフェソの司教として小アジア教会を司牧したといわれている。そしてヨハネ福音書と3つの手紙、黙示録を著わした。彼の福音書は、四福音書のうちで最後に著わされた（90〜100年ころ）。<br />
　ヨハネ福音書の中で、キリストは神でありながら真の人間であることが表現され、友のために涙を流すイエスの姿や、弟子に対する友愛、ヨハネに対する愛などが浮き彫りにされている。ヨハネ福音書の中には、ヨハネの名は出てこないが「イエスの愛された弟子」と表現されている。またヨハネの3つの手紙には、キリストの愛の掟についてあふれるばかりに述べられている。<br />
　ヨハネは伝説によれば、その後、ローマ皇帝ドミチアヌスのキリスト教迫害が始まったときに、パトモス島に流され、そこから小アジアのキリスト信者たちに「ヨハネの黙示録」を書き送り、エフェソで亡くなったといわれている。</p>

<p> <br />
</p>]]></description>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Tue, 27 Dec 2005 13:45:41 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ステファノ：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２６日<br />
　　聖ステファノ殉教者（St. Stephen）</p>

<p>　キリスト教最初の殉教者といわれるステファノは、ギリシャ語を話すユダヤ人であった。イエス・キリストが昇天されてから数年がたち、キリスト信徒が増えていたころ、ギリシャ語を話すユダヤ人信徒たちから、ヘブライ語を話すユダヤ人信徒に対する苦情がもち上がった。それは、彼らのやもめたちが教会からの配給を十分受けられないということであった。そこで、12使徒（イエス・キリストに選ばれた弟子）たちは、やもめたちへの日常品を配給・監督し、使徒を補佐する7人を選んだ。ステファノはその1人であり、「信仰と聖霊に満ちた人」で、その活動はすばらしいものだった（使徒行録6〜7章参照）。<br />
　しかしキリスト教に反対する人々は、ステファノを憎み、彼が神殿を破壊しようとしているという偽りの罪を着せ、告訴して彼を衆議会の裁判に連行した。ステファノは弁明し、イスラエルの救いの歴史に対して人々が神にしてきた過ち、そして今のイスラエルの人も救い主である神を裏切り、死に至らしめたことを堂々と述べた。それを聞いた議員たちは怒り、ステファノを冒とく者として石打ちの刑にした。その刑に賛同した人々の中に、後に異邦人の使徒となるサウロ（使徒聖パウロ）がいた。<br />
　ステファノは、石打ちに遭いながらも、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言って眠りについた。ステファノという名は、ギリシャ語で「冠」という意味であり、その名にふさわしくキリストの名のために殉教の冠を受けたのであった。<br />
</p>]]></description>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Mon, 26 Dec 2005 13:43:51 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>アナスタジア：子供の名前（女の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２５日<br />
　　聖アナスタジアおとめ殉教者（St.Anastasia of Sirmium)</p>

<p>アナスタジアは、ローマの貴族プレテクタトスの娘として生まれた。アナスタジアは結婚したのち、クリュソゴノスの指導のもとにキリスト者となった。ローマ皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教迫害下にあって、彼女は捕えられた人たちを牢獄に訪ね、慰め、力づけた。<br />
　しかし、アナスタジアがキリスト者であると分かると即座に捕えられ、シルミウムのイリリクム（現在のユーゴスラビアノミトロウィツ）の法廷で、信仰を捨てるよう命令された。断固として拒否した彼女は、死刑の宣告を受けるが、奇跡的に助かり、他の助かった罪人たちはみな心を改め、キリスト信者になったといわれている。その後、彼女はパルマリア島に送られ、火あぶりの刑を受け、殉教した。<br />
　5世紀に、彼女の遺体はコンスタンチノープルに移され、ナジアンゾスのグレゴリオ（カパドキアの3大教父の一人）によって建てられた教会に安置された。この地から聖人を敬う祭儀が広まったといわれ、アナスタジアの名前を付けた教会がローマに建てられた。</p>]]></description>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Sun, 25 Dec 2005 13:42:03 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>シェーベル：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２４日<br />
　　聖シェーベル・マクルーフ司祭（St.Charbel Makhlouf）</p>

<p>ヨハネは、ポーランドのケンティに生まれた。1413年からクラクフ大学に学び、卒業後同大学で聖書を教え、1421年から8年間はテンプル騎士団の学校で教鞭を取った。その後クラクフ大学に戻り哲学を教え、神学修士の学位を取得するなど研鑽に励み、哲学と神学の教授として有名になった。学生たちは、彼の導きのもとに大きな影響を受け、高い学位を望む学生はヨハネの残した服を着て成功を祈ったほどだと伝えられている。<br />
　ヨハネ自らは清貧に生き、信仰深く、クラクフ街の貧しい人々に対して寛大な愛を示すなど、彼らの友として知られるようになった。そしてローマには4回にわたり徒歩で、エルサレムには1回、巡礼を行った。<br />
　ポーランドの守護聖人として仰がれている。<br />
</p>]]></description>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Sat, 24 Dec 2005 13:39:46 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ヨハネ：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２３日<br />
　　聖ヨハネ（ケンティ）司祭（St. John of Kanty）</p>

<p>ヨハネは、ポーランドのケンティに生まれた。1413年からクラクフ大学に学び、卒業後同大学で聖書を教え、1421年から8年間はテンプル騎士団の学校で教鞭を取った。その後クラクフ大学に戻り哲学を教え、神学修士の学位を取得するなど研鑽に励み、哲学と神学の教授として有名になった。学生たちは、彼の導きのもとに大きな影響を受け、高い学位を望む学生はヨハネの残した服を着て成功を祈ったほどだと伝えられている。<br />
　ヨハネ自らは清貧に生き、信仰深く、クラクフ街の貧しい人々に対して寛大な愛を示すなど、彼らの友として知られるようになった。そしてローマには4回にわたり徒歩で、エルサレムには1回、巡礼を行った。<br />
　ポーランドの守護聖人として仰がれている。<br />
</p>]]></description>
<link>http://www.nazuke.jp/seijin/000382.php</link>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Fri, 23 Dec 2005 13:38:02 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>フランチェスカ：子供の名前（女の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２２日<br />
　　聖フランチェスカ・ザベリオ・カブリーニ修道女（St.Frances Xavier Cabrini）</p>

<p>　フランチェスカは、イタリア、サンタンジェロ・ロディジャーノの農家に生まれ、信仰深く育てられた。<br />
　1874年から、当時創立されたある教育修道会に教師をしながら協力したが、1880年に会が解散されたため、フランチェスカは、同年に世界宣教を使命とする「イエズスのみ心の女子宣教会」を創立した。彼女は、同会をミラノとローマに広げ、さらに教皇レオ13世の要望により、1889年イタリア人移民への奉仕のためにアメリカに渡った。アメリカの各地を回り、移民のために多くの学校、施設、病院を作った。彼女は、亡くなるまで人々のために奉仕し、信仰へと導いた。<br />
　フランチェスカは、移民の保護者と呼ばれている。</p>]]></description>
<link>http://www.nazuke.jp/seijin/000381.php</link>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Thu, 22 Dec 2005 13:36:13 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>カニジオ：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２１日<br />
　　　聖ペトロ・カニジオ司祭教会博士（St. Peter Canisius）</p>

<p>ペトロは、当時ドイツ領であったニンヴェーゲン（現在のオランダ）で生まれ、信仰深く育てられた。ケルン大学に入り、初め法律家を志したが、神学の研究に傾倒し、司祭となって生涯を神にささげたいと思うようになった。そのころ、ドイツを訪れたイエズス会員のペトロ・ファーブルと出会って、ペトロは自らの道を見つけ、1543年にイエズス会に入り、ドイツ最初の同会員になった。当時のドイツは、町や人、教会も荒廃するというひどい状態にあり、司祭もおらず、修道者は人々の軽蔑の対象とすらなっていた。<br />
　ペトロは、司祭になった翌1547年にトリエント公会議に出席し、カトリック擁護の立場を強調した。大学で教鞭を取る一方、神学やカトリック要理に関する著作の出版や説教によって、人々を信仰へと導いた。また、ケルンに最初のイエズス会修道院を設立したり、各地に大学や施設を建てるなど、その地方の教会の刷新に多大なる貢献をした。<br />
　ペトロの数多い著作の中では『カトリック小教理問答』は有名で、200版を重ね15か国語に翻訳されている。<br />
　彼は、8世紀にドイツにカトリックをもたらした「ドイツ第1の使徒」聖ボニファティウスに並び、「ドイツ第2の使徒」と呼ばれている。<br />
</p>]]></description>
<link>http://www.nazuke.jp/seijin/000379.php</link>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Wed, 21 Dec 2005 13:34:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>カニジオ：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２１日<br />
　　　聖ペトロ・カニジオ司祭教会博士（St. Peter Canisius）</p>

<p>ペトロは、当時ドイツ領であったニンヴェーゲン（現在のオランダ）で生まれ、信仰深く育てられた。ケルン大学に入り、初め法律家を志したが、神学の研究に傾倒し、司祭となって生涯を神にささげたいと思うようになった。そのころ、ドイツを訪れたイエズス会員のペトロ・ファーブルと出会って、ペトロは自らの道を見つけ、1543年にイエズス会に入り、ドイツ最初の同会員になった。当時のドイツは、町や人、教会も荒廃するというひどい状態にあり、司祭もおらず、修道者は人々の軽蔑の対象とすらなっていた。<br />
　ペトロは、司祭になった翌1547年にトリエント公会議に出席し、カトリック擁護の立場を強調した。大学で教鞭を取る一方、神学やカトリック要理に関する著作の出版や説教によって、人々を信仰へと導いた。また、ケルンに最初のイエズス会修道院を設立したり、各地に大学や施設を建てるなど、その地方の教会の刷新に多大なる貢献をした。<br />
　ペトロの数多い著作の中では『カトリック小教理問答』は有名で、200版を重ね15か国語に翻訳されている。<br />
　彼は、8世紀にドイツにカトリックをもたらした「ドイツ第1の使徒」聖ボニファティウスに並び、「ドイツ第2の使徒」と呼ばれている。<br />
</p>]]></description>
<link>http://www.nazuke.jp/seijin/000380.php</link>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Wed, 21 Dec 2005 13:34:06 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>ドミニコ：子供の名前（男の子）</title>
<description><![CDATA[<p>１２月２０日<br />
　　聖ドミニコ（シラスの）（St. Dominic of Silos）</p>

<p>　ドミニコは、スペイン、ナヴァラの農家に生まれた。少年時代は、羊の世話をしながら、教会の典礼、聖書、祈りの本をよく学んだ。その後、かねてからの望みがかない、サン・ミリャン・ド・コゴリャのベネディクト会に入った。ドミニコの学問と徳は深く、修道院長に選ばれた。当時、ナヴァラ王ガルシア3世が、修道院の所有する土地が王家のものであると主張したの対して、ドミニコは修道院の権利を固く守ったため、他の2人の修道士とともに追放処分された。<br />
　ドミニコらは、カステリャ王フェルナンド1世の保護を受け、ブルゴス教区のシロスのサン・セバスチャン修道院に招かれた。その修道院は、長い間霊的にも経済的にも活気を失っており、王はドミニコに院長としてその再建をしてくれるよう頼んだ。果たして、修道院は次第に改善され、ドミニコはシロスに写本室を設置し、スペイン初の美しいキリスト教の書籍が生み出されていった。彼の名声はますます高まり、修道生活を志す者たちは後をたたず、多くの寄付金が寄せられた。修道院は修復され広くされて、ドミニコが亡くなった当時、サン・セバスチャン修道院はスペイン最大の修道院の1つとなったほどであった。<br />
　彼は、その時代の最も有名な修道者の1人である。<br />
</p>]]></description>
<link>http://www.nazuke.jp/seijin/000378.php</link>
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<category>010)聖人カレンダー</category>
<pubDate>Tue, 20 Dec 2005 13:32:19 +0900</pubDate>
</item>


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